大臣時代活動〜2002年4月18日成田空港「平行滑走路」ついに共用開始〜

2002年4月18日、成田空港「並行滑走路」ついに共用開始

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 1978年空港開港以来長年にわたって先送りされてきた成田空港並行滑走路建設。
川崎二郎が運輸大臣就任以来、成田空港問題の解決を最重要課題として掲げ「議員バッチをかけて解決する」とした並行滑走路が2000年4月18日についに共用開始となった。
 川崎が大臣在任中、決断を下した1999年5月20日の「暫定滑走路案」、それを受けての今回の共用開始、実に24年の月日がかかったことになる。
 三里塚に新国際空港建設が決まったのは1966年、佐藤栄作内閣の時代であった。当初は三本の滑走路を前提に計画が立てられていた。しかし、地元反対運動や過激派の介入などで計画が進まず暫定的に一本の滑走路で開港した。
 成田空港は年間の貨物量が世界2位、利用者数で7位、発着数でも16位。これだけの空港が滑走路一本で運行しているのは世界でも例を見ない異例の状態であり、2002年6月にはサッカーのワールドカップが控えている。
 この事態を見た川崎は大臣就任早々の1998年10月24日には成田空港を視察し、沼田武・千葉県知事、小川国彦・成田市長、相川勝重・芝山市長と会談、協力を要請した。反対派農民、地権者が提出した声明に自ら答え、説得にあたった。平行滑走路建設が乗り入れを希望する33国に対する国際公約になる中、反対派は話し合いを拒否。そうした中、川崎は5月10日、5ヘクタールの未買収地問題の為、2500メートル滑走路・2000年完成を断念した。
 川崎は2000年度内完成という課題を果たせなかった責任を感じ、自ら給与の一部を返上する意向を示した。これに林運輸政務次官、黒野運輸事務次官、さらに中村新東京国際空港公団総裁、同永井副総裁が続き、この事は中央省庁のトップが政策の履行に対し具体的な責任をとるという過去前例のない川崎流のけじめのつけかただった。川崎は引き続き反対派に対し「話し合いの機会があればいつでも出て行く」と話し合い路線の継承を強調したが、一時は計画凍結の話もながれた。
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 しかし一方「空港早期完成促進協議会」が結成され、平行滑走路推進を求める署名運動が起こった。署名は2週間で26万人にも及び、署名を手渡された川崎は「地元からの意見として重く受け止め、速急に検討したい」と約束した。
 そして1999年5月20日、川崎は沼田千葉県知事と会談を行なった。それは同月10日沼田知事に提案した、2500メートル滑走路に対する新方式(2200メートル暫定滑走路案)の回答を聞くためだった。
 沼田知事は「暫定滑走路案」に理解を示し、ついに膠着していた成田空港並行滑走路問題は動きだした。
完成をワールドカップ開催に間に合うよう目標を決め、9月3日に川崎は中村・新東京国際空港公団総裁から「工事実施計画変更認可申請」を受け取り、工事が開始された。
 川崎は当時をこう振り返る。「成田空港は長年の懸案事項であった。国全体の状況を鑑み誰かがどこかでやらなければならない問題と認識し、思い切った判断をした」。
 共用開始が始まる前日4月17日に川崎は自身が決定した「暫定滑走路」の視察に向かった。暫定滑走路を視察しながら川崎は語る。「成田はこれで年間発着数が1.5倍、13万回から20万回に増える。しかし日本の国際競争力、空港需要を考えると空港機能の強化が不可欠であろう。一方反対派の事も考え、ねばり強い対話を続けていかねばならない」
 成田空港「並行滑走路」は様々な難局の中、川崎二郎の現実を見据えた判断、対話重視の政治姿勢が解決に導いた。
問題を先送りしない「信念を貫く政治」が、今求められている。



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